すする喜びを世界に発信している『博多 一風堂』
ラーメン一風堂を中心に世界15ヵ国で約300店舗を展開している源ホールディングスの創業者・河原成美社長の起業家としての歴史は本当に波瀾万丈である。あまり知られていない苦悩や犯罪からラーメンを経営しようと思ったきっかけや成功までの道のりなどを紹介します。
人生のドン底から這い上がった「博多 一風堂」創業者・河原成美社長の歴史に迫っていく。
もともとは役者志望
昔から芝居が好きで18歳で劇団や養成所に所属していた河原成美社長ですが、それと並行して地元の福岡で飲食のアルバイトをしていたそうです。
やはり芝居だけで食べていくのは大変なのだ。
窃盗で逮捕され、執行猶予3年の判決を受ける
役者では食べていけず、福岡に戻ってスーパー・ユニードに入社して衣類や雑貨の仕入れを担当した。役者という夢も破れて自暴自棄になっていた事もあり、仲間と共謀してユニードの店の商品を横流しした事で逮捕されてしまう。
その額は800万円。事件が発覚して40日間の拘置所暮らし。
懲役1年6カ月・執行猶予3年の有罪判決を受けた。
その後の裁判で高校の美術教師である父の涙ながらに謝罪している姿を見て、深く反省して心を入れ替えたそうだ。
もう一度、役者に挑戦しようと決める。この時、河原社長25歳。
バーの店主としてスタート
執行猶予の身なので職に就くことはできない。
そんな時に兄から「友達の店が閉店するので、バーをやってみないか?」と言われ、芝居と飲食の両立を勧められたが中途半端な事が嫌な性格なので、悩んだ挙句、飲食の道に入ることに決めた。
この時、河原社長26歳。ちなみに「アフター・ザ・レイン」という名前の5坪ほどの小さなバーです。
「商売で絶対に成功するんだ」という信念
開店時に3つの目標を自らに課した河原社長。
「3年間一日も休まない」
「顧客ゼロの日は作らない」
「30歳になる3年後に福岡一の繁華街天神地区に店を出す」
これに加えて
「33歳までにもう一店舗出店する」
「35歳までに天職を見つける」という目標を持っていた。
30歳で移転したお店は20坪ほど
以前の5坪のお店のでは月商150~180万円だったが、移転後のお店では月商500~600万円に。お店は連日繁盛して経営も順調だったそうです。
この時、河原社長32歳。
「33歳までにもう一店舗出店する」という目標のために2号店を出すかどうか悩み葛藤する。
仕事における価値観は「格好いいかどうか」
河原社長の仕事における価値観は今も変わっていないようだ。
繁盛しているお店の2号店を出すことが「格好いいかどうか」でかなり悩んだ。
だが、それよりももっと「ビックリするようなこと」がやりたいと気付く。
女性でも気軽に入れるラーメン屋を始めようと決心する
当時からラーメンが好きだった河原社長。
しかし当時のラーメン屋には汚い・怖い・臭いというイメージがあり、女性はほとんど行かなかったらしい。
要するに「ラーメン屋=格好悪い」と思われていたのだ。
そのイメージを変えるために女性でも気軽に入れるような、格好いいラーメン店をやってみようと決めた。格好いい店名、格好いい内装、格好いいメニューで、うまい豚骨ラーメンを食べられる店を作ろうと決心した。
ラーメンの作り方を知らない
河原社長は格好いいラーメン屋をやることを決心したが、最も重要なラーメンの作り方を知らなかったのだ。
しかし運よくバーのお客さんの中にラーメン屋の息子さんがいて、そのオヤジさんからラーメンの事を色々教わったそうだ。
昼間はラーメン屋、夜はバーの掛け持ち。その合間に150軒近いラーメンを食べ歩いた。そんな生活を1年続けた。
ラーメン屋「博多 一風堂」1号店がオープン
河原社長33歳の1985年10月に「博多 一風堂」1号店をオープン。
満を持してオープンしたが最初はほとんどお客さんはいなかったそうだ。
それ以前のラーメン屋は汚い内装が多かったそうで、一風堂のように綺麗なラーメン屋は受け入れられるまでに少し時間がかかったが、1年半後には200人以上のお客さんが来る人気店になった。
一風堂と言う名前の由来は?
「ラーメン界に一陣の風を吹かせたいとの思いから」だそうです。
「博多」という名前は付ける予定だった。
他には社長の本名である成美(しげみ)から「博多しげちゃん」という案もあったようだ。ハッキリ言うが「博多 一風堂」で本当に良かったと思う。
全てが順調だったわけではない
「博多 一風堂」のオープンで 「33歳までにもう一店舗出店する」 という目標はクリアして、残るは「35歳までに天職を見つける」だけ。
そのために河原社長は35歳でロードサイド型のラーメン屋を出店したり、37歳で居酒屋を出店したりしました。
売り上げが良い時もあったそうだが、長続きはしなかったのだ。
黒字店が一転してピンチに
バー、一風堂、ロードサイド型のラーメン屋、居酒屋の4店を経営していた河原社長。
一風堂は黒字利益を出していたが、他店の赤字に回すことで利益はなくなり、資金的に厳しい状況に追い込まれる。
この時、河原社長40歳目前。
医療ミスで臨死体験
経営が厳しい状況で河原社長に更なる悲劇が訪れる。
お尻にできたウイルス性の水いぼをに局部麻酔をしてメスで切り取るだけの簡単な手術の予定だったが、麻酔注射にミスがあり、手術中に体が大痙攣を起こしたそうだ。
医者の処置により何とか無事に手術を終えた。
危機的状況を一変した「ラーメン博物館への出店」
こうした厳しい状況の時に訪れたのが一風堂を大きく変えることになった1994年3月のラーメン博物館への出店である。
しかし最初に声がかかった時には出店を断ったそうだ。
その理由は今のように物流が便利ではなかったため豚骨スープや麺を用意できないからだ。
だが担当者の執拗な押しに負けて、1回だけ新横浜に建設したラーメン博物館を見に行くことになった。
想像を遥かに上回る田舎感に出店をやめようと決心したが・・・
建設中のラーメン博物館を見に行って驚いた河原社長。
新横浜駅から距離があり、周りの土地は草だらけという想像以上の田舎だったのだ。建物も完成前の灰色で、さらに雨に濡れて黒ずんでいる。
「これは絶対にうまくいかない。やはり出店はやめよう」と思ったそうだ。
その意思を伝えようと伺った事務所のスタッフの表情で考え方が変わったのだ。
失った情熱を取り戻した
最初のバー(アフター・ザ・レイン)を始めた時に「絶対に商売で成功しよう」と誓っていたが、それから十数年経ちその思いを忘れていた。
その情熱をラーメン博物館のスタッフたちが思い出させてたのだ。ラーメン博物館を本気で成功させようと頑張っている姿に心を打たれたのだ。
河原社長の無くした情熱をラーメン博物館のスタッフたちが思い出させたのである。
恵比寿に東京1号店を出店
スタッフの熱意に感動してラーメン博物館への出店を決意した河原社長。
その後「博多 一風堂」は爆発的な人気店へと成長していったが、忙しい日々の中で河原社長は「 35歳までに天職を見つける」 という目標を忘れていた。
ラーメン博物館出店1年後に東京の恵比寿に「博多 一風堂」東京1号店を出すことに。
天職に出会った
ラーメン博物館に出店して4年が経った頃、テレビ東京の「TVチャンピオン全国ラーメン職人選手権」という番組に参加した。
北海道の最南端にある松前町で、ご当地ラーメンを創るために各店が競い合うという内容で、博多 一風堂が優勝した。
この時に地元の応援してくれている人たちが涙を流しながら「おめでとう」と祝福してくれたという。社長も涙ながらに「ありがとう」といって、この時に「感謝」という言葉の本当の意味が分かったそうだ。
ちなみに3年連続でチャンピオンになっている。
「一杯のラーメンがこれだけ多くの人たちの気持ちを動かすのか」と感じた時に、このラーメン作りこそが天職だと思えたそうだ。
次の目標は海外進出
50歳を過ぎたら海外での事業展開を考えていた河原社長。
中国の企業と合併して中国で出店したが、3年後に考え方のズレから合併解消となる。
そして2008年3月に博多 一風堂の海外1号店をニューヨークで出店する。
世界に一風堂の名前を轟かす
せっかくニューヨークにラーメン屋を出すというので普通のラーメン屋ではなく、度肝を抜くような格好いいラーメン屋を作ろうと決める。
その工夫とは席が空くのを待つためのウエイティングバーの設置とラーメン一杯1700円と言う強気な価格設定だ。
「ラーメン=スゴイもの」という意識をニューヨーカーに植え付けた河原社長。
それにより世界で最も熾烈なレストラン競争が行われているニューヨークでの成功は一風堂の名を世界に認めさせたことになる。
「意志あるところに道は開ける 」
河原社長の座右の銘はリンカーンの「意志あるところに道は開ける」だ。
人は変わろうという意志があれば、必ず変われるのだ。
重要なのは「決心できるかどうか」である。
今後の目標
2025年には国内300店鋪、海外300店鋪の実現を目指すのが今の目標だそうだ。
普通に考えれば無理だろうと思ってしまうが、この人が言うとなぜか現実味があるのだ。この説得力はきっと壮絶な経験をしてきた人の言葉だからこそ響くものなのだろう。
世界に「ラーメン=スゴイもの」という概念を与えたのは間違いなく河原社長のおかげだと思う。
本人は控えめに「いずれ誰かがやっただろう」と言っているが、私はそうは思わない。この人だからこそ出来たのだ。
人生のドン底から這い上がった男の行動には言葉では説明できない何かがある。
個人的には河原社長の新しいプロジェクトに期待している。この人は私、いや世界の人々をまだまだ楽しませてくれるはずだ。
「格好いいかどうか」と「ビックリするようなこと」という価値観がある限り、河原社長の旅は終わることがないだろう。